長野県の「ナガノ」という県名はどこから生まれたのでしょうか?名前の由来や歴史について教えてください。
当記事はこんな疑問を抱えている方が対象。
結論からいうと、長野県の県名「ナガノ」は長く伸びた地形(ナガ)と、野原(ノ)が組み合わさって「長野」になったといわれている。
この長野という名前の由来は、知れば知るほど面白い。
当記事では、文献をもとに長野県における県名の由来と歴史についてまとめた。
長野県の歴史と名前の意味についてインプットしたい方は、ぜひ参考にしてみてほしい。
長野県の県名「ナガノ」はどこからやって来たのか
長野県の由来をシンプルに考えたとき、おそらく「長野市が県庁だから」と考える人がほとんどだろう。
ごもっともだ。
むしろ正解である。
とはいえ、その長野市の「ナガノ」という名前はどこからやってきたのだろうか。
まずはその歴史から辿ってみよう。
「長野」がはじめて登場したのは1570年頃
歴史に「長野」という地名がはじめて登場したのは、川中島の合戦が終わった1570年頃のこと。
武田信玄が葛山衆の立屋勘解由左衛門尉に「長野のうち五貫文」の領地を与えた、という文献がある。
続いて1601年(慶長六)、徳川家康が善光寺に土地一千石を寄進したなかに「長野二五〇石」が含まれていた。
長野という地域は善光寺領のほんの一部
長野と聞くと、当時から広大な地域だったのではないかと思ってしまう。しかし、実際は善光寺領のほんの一部でしかなかった。
徳川家康が寄進した「長野二五〇石」は、以下に囲まれた地域だったという。
- 妻科
- 問御所
- 権堂
- 三輪
- 箱清水
このように長野は、非常に小さな地域だったのだ。
そういった背景もあってか、長野という地域は通称「善光寺町」と呼ばれていた。
明治に誕生した「長野村」
明治になると、以下がまとまって「長野村」が誕生する。
- 「後町」
- 「大門町」
- 「元善町」
- 「桜枝町」
- 「長門町」
- 「上長野」
- 「下長野」
- 「東之門町」
- 「西之門町」
それでもこの時点ではまだ村。
はたして長野はこの先どうやって化けていくのか。
長野が県名になるまでの歴史
江戸時代の長野県は、まだ信濃国の状態。
県歌「信濃の国」にもあるように、長野県は昔から長い間、「信濃国」とよばれていたんだね。 どれくらい昔からかというと、今から1300年以上も昔の7世紀後半に、「科野(しなの)国」が成立したことが知られているんだ。 その約50年後の704年、漢字を「信濃」に改めて、信濃国の印がはじめてつくられたんだ。
引用:長野県の歴史1
江戸時代が終わると、長野の歴史はけっこうなスピードで加速していく。
- 1868年 「伊那県」が設置される
- 1870年 伊那県の北部と東信が「中野県」として分立。県庁が中野に置かれる
- 1871年 「長野県」が発足
- 1874年 長野村が「長野町」になり、元善町に長野町役場が置かれる
- 1897年 長野町が「長野市」になる。旧長野町は「大字長野」になった。
もともとは小さな地域でしかなかった「長野」が、県名になる様子は非常に感慨深い。
ここで別の県名になっていた世界線を考えると、さらに楽しくなる。
長野という名前の由来
冒頭で触れたが、長野という名前の由来をあらためて。
由来に関しては諸説あるようだが、ナガノの「ナガ」は「流れる」を意味する長く伸びた地形(ゆるい傾斜地のこと)を指す。ナガノの「ノ」はシンプル「野」を意味する。
これらが組み合わさって出来たのが「長野」というわけだ。
長野は善光寺領の一部だったわけだが、まさにその周辺の地形を表している。
とは言え、こういった地形は日本各地に見られるため、珍しいわけではない。なんなら県内にも「長野」という名前がついた地域(大阪の河内長野など)はいくつかあるのだ。
長野県の由来に関するQ&A
長野県の由来に関するQ&Aについてまとめて。
情報収集などにどうぞ。
Q1:長野県の昔の県名は何?
A:信濃国。
旧国名の一。東山道に属し、大半が現在の長野県にあたる。ごく一部(旧山口村)が岐阜県に編入された。信州。
引用:goo辞書
Q2:長野県の別名を教えて
A:信州。
私たちの県は長野県という県名を持ちながら、信濃、信州と呼ばれています。
まとめ
長野県の県名「ナガノ」の由来について解説した。
日本各地にある珍しくもない地名から、県名にまで上り詰めた「長野」。この物語を知れば、きっと全米が涙するはず。
県名にまで出世した「長野」を愛おしく思う。
参考文献:
長野「地理・地名・地図」の謎 – 意外と知らない“信州”の歴史を読み解く! (じっぴコンパクト新書)
長野県をもっと知りたくて仕方ない人向け
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